Yuzuki Sugimotoのノート

言語・宇宙論・テクノロジーなど、「なぜそうなってるのか」を考えるのが好きな人。

「イェ」問題──ゐ・ゑの次に来るもの

前回、「ゐ」「ゑ」を復活させたらどうか、という記事を書いた。

「ゐ」「ゑ」は本当に不要か?──音韻論から考える仮名の欠落問題

すると当然、次の疑問が浮かぶ。

「イェ」はどうするの?

/je/ 音は日本語に定着していない

正直に言うと、/je/ 音は日本語で定着していない。

  • Yellow → イエロー(イェローではない)
  • Yes → イエス(イェスと書く人もいるが少数派)

外国の固有名詞を原音に近づけたいときに「イェ」が出てくる程度。日常会話では稀だ。

ただし、一つだけ例外がある。

「いぇーい!」問題

テンション上がったときの掛け声。

「いぇーい!」 って言いません?

これ、どう書く?

  • 「イェーイ」(現状)
  • 一文字で書きたい(けど文字がない)

一方で 「うぇーい!」 派の人もいる。こっちなら「ゑ」が使える。

「ゑーい!」

……書けた。

でも「いぇーい」派はどうする?

ここで問題。

「ゐ」「ゑ」は百人一首にも出てくる、れっきとした歴史的仮名だ。

でも /je/ に対応する仮名は、歴史上存在しない

や行は「や・ ・ゆ・ ・よ」で、「yi」と「ye」の位置が空白。「ye」の文字がないのだ。

問いかけ:どうすべきか?

選択肢は3つある。

  1. 「ゑ」に /we/ と /je/ を兼務させる

    • 「うぇーい」も「いぇーい」も「ゑーい」
    • シンプルだが、音が違う
  2. 新しい文字を作る

    • 「ye」専用の仮名を新造
    • 歴史的根拠がない
  3. 現状維持

    • 「イェ」のまま2文字で書く
    • 諦め

正解はない。

……と言いつつ、ちょっと考えてみた。

「新しい文字を作る」について

何もないところから創造する必要はない。

そもそも平仮名・片仮名は、漢字を崩したり省略したりして作られた。つまり 既存の文字から派生させる のが日本語の伝統だ。

現代に合わせた方法として、こういうのはどうか:

既存の文字・記号から /je/ に近いものを探して当てはめる。

探したら「いぇ」と「え」で辞書登録すれば、すぐ使える。

……ん? これって ギャル文字 では?

「ぁたしゎ」とか「こωにちは」とか、既存の記号を組み合わせて新しい表現を作るやつ。平成レトロとして最近また注目されてる。

よく考えたら、平仮名・片仮名自体が 古代のギャル文字 だったのでは。漢字を崩して「私的に使う文字」として生まれたわけで。

/je/ の候補を探してみた

方針 ひらがな用 カタカナ用 備考
音の根拠重視 є Є キリル文字(小文字/大文字)。ウクライナ語で /je/ の音
漢字から 中国語で yě。3画でシンプル
見た目重視 ε Ε ギリシャ文字(小文字/大文字)
馴染みやすさ え゛ エ゛ 「ヴ」と同じ発想

個人的には 「也」 が面白いと思う。

日本語では「や」と読むが、実は中国語では yě(イェ)。まさに /je/ の音だ。3画でシンプル、「へ」と同じく平仮名・片仮名の区別がない、そして「なり」という古風な意味もエモい。

也ーい!

……いや、これだと日本語話者には「やーい!」って囃し立ててるようにしか見えないな。

やっぱり難しい。

ただ、こういうことを考えるのは楽しい。

「ゐ」「ゑ」は本当に不要か?──音韻論から考える仮名の欠落問題

問題提起:わ行の非対称性

現代日本語の五十音表を見ると、「わ行」だけ異様にスカスカだ。

  • あ行:あ・い・う・え・お(5文字)
  • か行:か・き・く・け・こ(5文字)
  • わ行:わ・ ・ ・ ・を(2文字)

なぜこうなったのか。そして、これは「正しい」状態なのか。

歴史的経緯:音韻変化による消滅

「ゐ」「ゑ」が消えた理由は明確で、音韻変化による。

平安時代中期から鎌倉時代にかけて、以下の統合が起きた:

  • /wi/(ゐ)→ /i/(い)
  • /we/(ゑ)→ /e/(え)
  • /wo/(を)→ /o/(お)※ただし助詞として残存

発音の区別が消滅すれば、文字を分ける必要もなくなる。1946年の「現代かなづかい」で正式に廃止されたが、実態としては数百年前に死んでいた文字だった。

ここまでは教科書的な説明だ。

逆転現象:外来語による音素の復活

問題は現代にある。

明治以降、大量の外来語が流入し、日本語の音韻体系に変化が起きた。特に顕著なのが /wi/ と /we/ の復活だ。

  • whisky → ウィスキー /wisuki:/
  • web → ウェブ /webu/
  • window → ウィンドウ /windou/
  • Norway → ノルウェー /noruwe:/

これらは「ウ+ィ」「ウ+ェ」という2モーラ表記で書かれているが、実際の発音は1モーラ(または1モーラに近い)だ。

つまり、発音は復活したのに、対応する1文字の仮名がないという非対称が生じている。

音韻論的考察:なぜ「wu」は存在しないのか

ここで一つの疑問が生じる。わ行を「復活」させるなら、wa・wi・wu・we・wo の5つが揃うべきではないか?

答えは音韻論的に不可能だ。

/w/ は両唇軟口蓋接近音で、唇を丸めて調音する。/u/ も円唇後舌狭母音で、唇を丸める。

両者の調音位置が近すぎるため、/wu/ という音素は弁別的特徴を持ちにくい。実際、世界の言語を見ても /wu/ を独立した音素として持つ言語は極めて稀だ。

同様の理由で、や行に「yi」がないのも説明できる。/j/(硬口蓋接近音)と /i/(前舌狭母音)の調音位置が近すぎる。

したがって、わ行の「完全形」は:

a i u e o
わ行

この4文字で音韻論的に完備している。

「を」の発音問題:/o/ か /wo/ か

もう一つの興味深い問題がある。助詞「を」の発音だ。

現代標準語では「を」は /o/ と発音するとされる。しかし、以下の場面で /wo/ が現れる:

  • 歌唱時(「君を〜」を /kimi wo/ と歌う)
  • 強調時
  • 一部の方言

言語学的には、助詞「を」は音韻的に /o/ だが、異音として [wo] を持つと記述される。

ここで仮説を立ててみる。

もし「ゐ」「ゑ」が復活し、わ行が wa・wi・we・wo という体系として認識されるようになったら、「を」の発音は /wo/ として再解釈される可能性がないか?

現状、「を」が /o/ とされるのは、わ行に他の文字がないからだ。「わ」と「を」だけでは、「を」が「わ行のo段」であるという認識が薄い。

しかし、わ行が4文字揃えば、「を」は「わ行のo段 = /wo/」という体系的な位置づけが明確になる。

実装上の障壁:存在しない

「ゐ」「ゑ」を使いたいと思っても入力できない──これは誤解だ。

現在の主要IMEMicrosoft IMEGoogle日本語入力Apple日本語入力)は、すべて「ゐ」「ゑ」の入力に対応している。

  • 「い」→ 変換 →「ゐ」(候補に出る)
  • 「え」→ 変換 →「ゑ」(候補に出る)

ただし変換候補の優先順位が低いため、ユーザーが気づいていないだけだ。

技術的障壁はゼロ。使う人がいないから使われていないだけ。

結論:言語は使用者が決める

言語の変化は、アカデミアや政府が決めるものではない。使用者の総体的な選択によって決まる。

「ゐ」「ゑ」の復活が起きるかどうかは、結局のところ「使う人が現れるかどうか」に依存する。

音韻論的には、現代日本語に /wi/ /we/ が存在する以上、対応する仮名があることは合理的だ。問題は合理性ではなく、慣習の壁だけだ。


参考:カタカナ「ヰ」「ヱ」

外来語表記という観点では、カタカナの「ヰ」「ヱ」を使う方が理にかなっている。

ひらがな「ゐ」「ゑ」は和語・日本語化した表現に、カタカナ「ヰ」「ヱ」は外来語に、という使い分けも考えられる。